ナビゲーション
| TOP | 佐賀県のおいたち | 佐賀県のミニ知識 | 佐賀県の自然や産業はどのようになっているのでしょうか? | 地形の特色 | 自然と向き合う産業 | 各市町村の特産品・祭り・行事
| 地図の区分けによる道路地図や地域行事など | 道路の種類と役割 | 道の整備と町の発展 | 町の変化・くらしの変化 | 道ができるまで | 歴史的遺産 | あとがき |
 
歴史的遺産
 
佐賀県の主な道の歴史
     
肥前路(ひぜんじ)って   長崎街道って
 肥前路(ひぜんじ)は、太宰府(だざいふ)から有明海(ありあけかい)を西回(にしまわ)りに迂回(うかい)して、島原(しまばら)を経由(けいゆ)して熊本県(くまもとけん)まで続(つづ)いています。県内で肥前路は、今の基山町(きやままち)、肥前国府(こくふ)のある大和(やまと)町尼寺(にいじ)を通っていることが地図(ちず)からもわかるでしょう。
 佐賀県の地形図で佐賀平野(へいや)には、特別(とくべつ)に海抜(かいばつ)5メートル以下の平(たい)らなところを色わけして示しています。これは昔は海だったといわれています。海抜5メートルのところが昔の海岸線(かいがんせん)とは正確(せいかく)には一致(いっち)しませんが、海岸線は古代路(こだいじ)ができるころには次第(しだい)に南の方にうつって平らなところが広がってきたと考えられます。
 この肥前路にそって多くの遺跡(いせき)が発掘(はっくつ)されています。例(たと)えば、たべかすや使った土器(どき)を捨てた貝塚(かいづか)のあとや田代太田古墳(たしろおおたこふん)、吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)、丸山古墳(まるやまこふん)、船塚古墳(ふなづかこふん)や土生遺跡(はぶいせき)などがあげられます。
   長崎街道(ながさきかいどう)は肥前路の建設(けんせつ)から約900年後につくられました。平らな土地が南に広がり肥前路よりは南の方で佐賀の城(しろ)の近(ちか)くを通(とお)っています。
 江戸(えど)時代、長崎街道は、小倉(こくら)と長崎をむすぶ大事(だいじ)な道路でした。鳥栖市田代町から佐賀城下(じょうか)を通(とお)って北方町(きたがたまち)で分かれ、嬉野(うれしの)町で合流(ごうりゅう)して長崎市に向かっています。
 江戸時代は徳川幕府(ばくふ)が鎖国(さこく)(外国との交流(こうりゅう)を禁止(きんし)する)をしていましたが、オランダや中国(ちゅうごく)・朝鮮(ちょうせん)の限(かぎ)られた国とだけ長崎の出島(でじま)を通じて交流することを許(ゆる)していました。この時代佐賀藩は、長崎をまもる仕事を幕府(ばくふ)からまかせられていたことから、外国の多くの情報(じょうほう)がわかりやすかったのです。また、藩主である鍋島公(なべしまこう)が、西洋技術(せいようぎじゅつ)をたくさん取り入れようと、積極的(せっきょくてき)に若者(わかもの)に西洋科学を学ばせました。
 このように、歴史の面から道を考えれば、道は、その時代の土地の様子にあった場所に建設され、人や物ばかりではなく、情報や文化を運んでいたことがわかります。